翻譯較難的是文化背景(2):The Decorative Art of Today by Le Corbusier 之Eugène Samuel Grasset
"Grasset was the geometrician and algebraist of flowers. With him we had to extend our admiration for all flowers as far as the secret of their structure, to love them so much that there was no alternative but to scatter them over all the works that we would like to have undertaken. Our childhood was illuminated by the miracles of nature. Our hours of study were spent hunched over a thousand flowers and insects. Trees, clouds and birds were the field of our research; we tried to understand their life-cure, and concluded that only nature was beautiful and that we could be no more than humble imitator of here forms and here wonderful materials."---
Le Corbusier , The Decorative Art of Today
這本1925的法文書很早就有日本翻譯本; 1965年修正版。如果MIT出版社說的沒錯,英文翻譯是1986/7年的事。 初淺的Eugène Samuel Grasset 介紹,還是對他們之間的關係了解有限。我是透過Le Corbusier's formative years by Brooks, H. Allen...的索引來了解他們的奇遇(Le Corbusier在電話步上看到他在學校讀書看過的Grasset的電話號碼,後者給他2小時之「先知般的教誨」:巴黎建築為”頹壞之流無法落實19世紀新材料之承諾、頁364有裝飾圖案之分解的習作學習...)
Le Corbusier , The Decorative Art of Today by Le Corbusier
Eugène Grasset (
Biography
Born Eugène Samuel Grasset in
In 1877 Eugène Grasset turned to graphic design, producing income-generating products such as postcards and eventually postage stamps for both France and Switzerland. However, it was
With the growing popularity of French posters in the United States, Grasset was soon contacted by several American companies. In the 1880s, he did his first American commission and more success led to his cover design for the 1892 Christmas issue of Harper's Magazine. In 1894 Grasset created "The Wooly Horse" and "The Sun of Austerlitz" for
At the end of the 19th century, Grasset was hired to teach design at École Guérin and École Estienne in Paris. Among his students were Maurice Pillard Verneuil, Augusto Giacometti, Paul Berthon and Otto Ernst Schmidt. At the
Eugène Grasset died in 1917 in
See also
Poster
ウジェーヌ・グラッセ
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ウジェーヌ・グラッセ(Eugène Grasset, 1845年5月25日 - 1917年10月23日)は、スイスの装飾芸術家。ベル・エポックの期間、フランスのパリで、さまざまなデザイン分野で活躍した。彼はアール・ヌーヴォーの先駆者と考えられている。
[編集] 生涯
ウジェーヌ・サムエル・グラッセ(Eugène Samuel Grasset)はスイスのローザンヌで生まれた。生まれた年は一説には1841年とも言われている。父親が飾り棚のデザイナー・制作者、彫刻家だったので、美術的な環境で育った。フランソワーズ・ボシオン(1828年 - 1890年)の下で絵を学び、1861年には建築の勉強をするためにチューリッヒに行った。卒業後、エジプトを訪問。この時の経験が、後に彼が描くことになるポスター・デザインに反映されることになる。さらに彼は日本美術のファンで、これもまた彼のデザインに影響を与えた。1869年から1871年にかけて、グラッセはローザンヌで絵と彫刻の仕事をしていたが、1871年にパリに移った。そこで家具、タペストリー、陶器、宝石のデザインをした。彼の美しい芸術装飾品は、象牙や金といった高価な素材を絶妙に組み合わせて作ったものだった。彼の作品がアール・ヌーヴォーの様式とパターンの基礎を築いたと考えられている。
1877年、グラッセはグラフィック・デザイナーに転身し、金になる作品、たとえば絵葉書や、さらにはフランス、スイス両国の切手などを作るようになった。しかし、速やかに彼の牙城になったのはポスター・アートだった。彼の作品のいくつかは装飾芸術美術館の一部を占め、その中に彼のリトグラフ『Jeanne d'Arc Sarah Bernhardt(サラ・ベルナール主演ジャンヌ・ダルク)』がある。1890年、彼は辞書出版社ラルース版が使う『Semeuse(スムーズ)』のロゴをデザインした。
フランスのポスターがアメリカで評判になり、アメリカの何社かがグラッセに連絡をしてきた。1880年代、彼はアメリカからの最初の仕事を受けた。グラッセが表紙を描いたハーパーズ・マガジン社の1892年のクリスマス号は大成功となった。1894年には、センチュリー・マガジン社が自社で出版していたナポレオン・ボナパルトの連作伝記の宣伝のために、『Wooly Horse(羊毛の馬)』と『The Sun of Austerlitz(アウステルリッツの太陽)』を描いた。『Wooly Horse』の絵は有名になり、ルイス・カムフォート・ティファニーがステンドグラスに再創造したほどだった。アメリカでのグラッセの仕事は、アール・ヌーヴォーがアメリカ美術に普及する道を開いた。
19世紀の終わりに、グラッセはパリの「エコール・ゲラン」と「エコール・エスティエンヌ」でデザインを教えるために雇われた。教え子の中には、モーリ ス・ピラール・ヴェルヌイユ、アウグスト・ジャコメッティ、ポール・ベルトン、オットー・エルンスト・シュミットらがいた。1900年のパリ万国博覧会では、「G・ペイニョ・エ・フィル」(フランスのタイポグラフィ工房)が、グラッセが1898年にいくつかのポスターに使うためデザインしたイタリック書体を紹介した。
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