2010年10月30日 星期六

法隆寺-4

http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/zbunkatu04.htm


法隆寺-4

 

 
      塼仏五尊像


      夏目廃寺
 (資料提供:名張市教育委員会)

「塼仏(せんぶつ)」は「押出仏(おしだしぶつ)」とも言い中国から渡来した技法です。
我が国では飛鳥時代に始まり天平時代で終わりを遂げます。
 塼仏の製法は雌型(凹型)に粘土を詰め、原型像の形を写し、それを焼成させた後下
地を施し、乾燥させた下地に金箔を押したり(貼ること)、彩色(絵付け)したりして出
来上がりです。食品の「たい焼き」は両面の雌型ですが塼仏は片面の雌型の違いがあり
ます。塼仏は焼成いたしますので当然小型のものしか造れません。逆に「塑像」の方は
大型の像だけに当時としては焼成することが不可能でした。
 古代は金堂内の白壁を、繍仏で覆うか、壁画を描くか、塼仏か押出仏(後述)を貼り
付けるかをして白壁のままでおいておくことは無かったのです。金堂などの壁を塼仏
で覆いめぐらし荘厳(しょうごん)された寺院を「塼仏寺院」と言い、塼仏寺院の多くは
白鳳時代に造営されましたが現在は ひとつも存在いたしません。
 三重県名張市の塼仏寺院だった「夏目廃寺」には復元展示されております。塼仏を実
物大の柱と柱の間の壁一面に張り詰めたものが並ぶそれはそれは大きくて立派なもの
ですが写真は一柱間分だけです。
 次の押出仏共に簡単安価に造立出来ますので単独像では個人礼拝にも用いられまし
た。

「五尊像」すなわち「三尊像および比丘像」の様式は中国では多く見られますが、我が
国では如来と十代弟子の像は法隆寺、興福寺など以外ではあまり見当たらず後の鎌倉
時代の禅宗寺院で見ることが出来ます。
 ただ、本五尊像は阿弥陀三尊像であるのにどうして釈迦の弟子が加わっているのか
それとも比丘像は十大弟子とは関係ないのでしょうか。

 


       鎚鍱五尊像

「押出仏」は「鎚鍱(ついちょう)仏」とも
言います。
 押出仏の造り方はレリーフ状の型の上
に薄い銅板を当てその上から鎚と細かい
部分はポンチ状のもので叩き、原型の凹
凸像を完成させます。
 現在のプレス加工は雄型、雌型の間に
材料を挟んで成型いたしますが押出仏は
雄型のみで行う違いがあります。精細な
部分の表現は出来ず「脱活乾漆造」のよう
に柔らかい感じの像となります。
 塼仏と同じように堂内の荘厳にも用い
られました。その貴重な遺品が後述の
「玉虫厨子」で内壁面には押出仏で埋め尽
くされております。
 押出仏は金鍍金(めっき)のままか、も
しくは鍍金の上に一部彩色したりして仕

上げます。 
 押出仏、塼仏ともに一つの型で同じものを造ることが出来る利点があり、東京上野
公園にある法隆寺献納宝物を納めた「法隆寺宝物館」でも同じ押出仏が見られます。押
出仏は中国・韓国に比べ少ない我が国ですが「法隆寺宝物館」には数多く収蔵されてお
ります。
塼仏共に簡単安価に造立出来ますので単独像では個人礼拝にも用いられました。
本五尊像は前述の塼仏と同じく阿弥陀三尊像および比丘像であります。

 

   
     地蔵菩薩像

 「地蔵菩薩立像」は平安初期の作と言われております
ので地蔵菩薩像が造られるようになった頃の像です。
現存最古の像でしかも
地蔵菩薩像では唯一の国宝指定
でもあります。
 左手に宝珠を持っておりますのは後世の地蔵菩薩像
と同じですが初期の地蔵菩薩像の典型である右手が与
願印となっておりよく目にされる後世の多くの地蔵菩
薩像が錫杖を握っているのとは違っております。
 「金堂」の背面に北向きに安置されておりましたのが
新しく建立されました「大宝蔵院」に移され大変拝観し
易くなりました。
 奈良県の大三輪神社の神宮寺「大御輪寺(おおみわで
ら)」
から明治時代に移されたもので大御輪寺から移さ
れた仏像には「聖林寺の十一面観音立像」があります。
 後に地蔵菩薩像といえば錫杖を持つのが定型となり
ましたのでこの地蔵菩薩像にも錫杖を持たせたのか台
座の右手下に当たる所(青矢印)に穴が開けられており

ます。ただしその場合右手は握ると言うより添えると言う感じになります。 
 量感にあふふる逞しい像で近寄りがたい威厳を備えており、庶民が親しむもう少し
痩せた地蔵菩薩とは異にしております。一部の特権階級の仏さんで庶民の仏さんでは
ない時代の地蔵菩薩像でしょう。しかし、この圧倒される迫力であれば賽の河原で鬼
と対決してもいとも容易く鬼を退散させたことでしょう。
 菩薩で比丘形であるのは地蔵菩薩だけであります。庶民に親しまれる仏は観音菩薩
と地蔵菩薩が双璧でありましょう。○○地蔵菩薩というように色んなご利益が頭につ
いた菩薩は珍しく、このことはいかに庶民の仏さんであるかという証でしょう。
 時代は浄土に導いて頂くために貴族たちは阿弥陀如来に、庶民たちは地蔵菩薩にお
祈りしました。それゆえ、次の鎌倉時代には地蔵菩薩像が盛んに造られるようになり
ます。
 
彩色像か檀像風の像かはっきりしておりません。
 神宮寺の像だけに神仏習合の影響で神の姿を仏の姿で表したのではないかとも言わ
れております。 

 

  
    帝釈天像

「帝釈天立像」は現存最古の像です。後述の玉虫厨子の施身
聞偈図での帝釈天は現存最古の画像です。  
 帝釈天像は塑像ですが樟材で一木造の裸形像を造りその上
に二層の塑土で仕上げております。是非、左足指をご覧くだ
さい。塑造の沓が破損して樟材で彫刻された五本の足指(

矢印
)が現出しております。沓が破損しなければ見えること
がないのに迫真的な表現を目的とした天平時代ならではでし
ょう。天平時代の「塑像」の制作は、まず最初に「裸形像」を作
りその裸形像に土で下襦袢姿に塑形いたします。さらに「雲
母(うんも・うんぼ)」を入れた仕上げ土で像の細部を塑形し
ていき完成させると
塑造の「装飾品」を貼り付けるという手間
の掛かることをしておりますので抜群の出来上がりとなりま
す。
これは女性の着物の着付けと同じ方法ですね。像全体が
乾燥後白土(化粧の白粉と同じ役目)で下化粧をいたします。
さらに極彩色の彩色と金箔の切金(きりかね)文様で華麗な変
貌を遂げます。簡単な塑像は五重塔の塔本四面具像のような
制作方法を取っております。

  「雲母」は高温多湿の奈良で、湿気が像に浸入して破損するのを防止するためだけ
でなく
彩色をし易くするためともいわれております。

 作品の出来上がりだけを頭に於いて制作に打ち込めた仏師は幸せだったことでしょ
う。それと、待遇面も申し分なかったのですから。仏師が
1300年前に苦労して造像し
たのを今間近に見れることは幸せです 。

 天平時代なのに心材の木彫像に桧材ではなく樟材を使ったのは何か意味があっての
ことでしょう。
 腰を右に振る堂々たる体躯ですが顔は幼く戦闘神の顔ではありません。 

 


     玉 虫 厨 子

 「玉虫厨子」は鎌倉時代の記録に推古天皇が
毎夕拝まれる念持仏として造像されたとの言
い伝えがあります。玉虫厨子の名称も鎌倉時
代が初見です。
 玉虫とは厨子の軸部に貼り付けられた透彫
りの銅板の下に玉虫の雄の美しい羽根を敷き
詰めたことが名称の由来であります。現在で
も何枚かはきらりと華麗な玉虫色(緑矢印)が
見られます。銅板に流麗細緻な文様を透彫仕
上げをすることは機械工具の無い時代に並大
抵の苦労ではなかったことでしょう。
 厨子の壁面に描かれた仏画は最古のもので
貴重な作品です。
 玉虫厨子ほど著名な工芸品は我が国では例
を見ないでしょう。堂内で保管されたので傷
みも少なく飛鳥時代の建築が1棟も現存しな
い中で飛鳥時代の建築様式、技法を今に伝え
る資料で極めて価値の高いものです。

 中国の宮殿建築が寺院建築として請来したのを我が国の宮殿建築に採用されました
ので、構成は上部から宮殿部、須弥座、台脚と呼びます。宮殿部は金堂そのもので二
重基壇までも金堂と同じです。 
 古代では仏像を安置する厨子を宮殿、仏殿、宝殿と呼ばれておりました。それが平
安時代に食器棚である厨子に経巻を納め経棚・厨子と言われるようになりましたのが
鎌倉時代になりその厨子に仏像を安置いたしましたので仏壇の原形である厨子と言わ
れるようになりました。

  「錣葺屋根(しころぶきやね)」は入母屋造より古式とも言われます。錣葺屋根につ
いては屋根のお話」をご参照ください。丸瓦の「行基葺(ぎょうぎぶき)」も入母屋造よ
りも古いのではないかと言われております。行基葺についても「屋根のお話」をご参
照ください。しかし、金堂より進んだ新様式の三手先を採用しております。
 金銅製の鴟尾は大き過ぎるくらいですが金堂も鬼板ではなく当初は鴟尾だったこと
でしょう。雲形斗栱は金堂と同じです。 
 丸垂木の一軒は飛鳥時代の特徴ですが玉虫厨子の「反りのある」丸垂木は木材が豊富
な我が国ならではで中国では丸垂木は直線とならざるを得ません。 「垂木のお話」をご
参照ください。
       
 宮殿内に安置されていた本尊は初見では阿弥陀三尊像となっておりますが当初は釈
迦如来像であったのが時代の流れで阿弥陀三尊像に代わったのでしょう。現在は観音
菩薩像に変わっております。
 
 古代の記録では宮殿像二具とありそれは玉虫厨子と橘夫人念持仏ではないかと言わ
れております。もしそうであるならば、推古天皇は天皇在位36年にも及びますが寺院 、
仏像を一つも造っておられないだけに貴重な遺品となります。
 制作年代は飛鳥、白鳳か議論の分かれるところです。 
 橘寺から移入されました。      


 金メッキされた4468体の鎚鍱仏が宮殿内の
壁一面に張り詰めてありました。内部は先述
の夏目廃寺のような壁となっておりましたか
ら宮殿内は明るく光り輝いていたことでしょ
う。
 鎚鍱像(押出仏)の制作方法は薄い銅板をレ
リーフ状の型の上に置き凹んだ所を鏨、釘な
どで破れない様に押し込んでいき出来上がる
と金メッキ仕上げとするというこつこつと根
気の要る仕事です。


 4468体の金銅製の鎚鍱仏の一部


  「玉虫厨子」は仏教絵画でも現存最古の遺品であるばかりでなく釈迦如来の前世の
物語・本生譚(ほんじょうたん)(ジャータカ・本尊生譚)でも数少ない貴重なものです 。
本生譚は釈迦が前世で自己犠牲の精神に則り修行された話で約500編あるとのことで
す。本生譚はインドで昔から庶民に親しまれた民話などを流用しているためヒンズー
教でも同じ説話があるらしいです。


 我が国はシルクロードの終着地で、仏教伝来が釈迦が悟られてから1000年も経って
おりましたので、釈迦如来像が残っていても釈迦如来の前世物語、仏伝は皆無に等し
いです。玉虫厨子の「捨身飼虎(しゃしんしこ)図」「施身聞偈(せしんもんげ)図」など釈
迦如来の前世の物語が保存よく残されておりますのは奇跡といえましょう。本生譚は
インド、中国では数多く作られましたが我が国では仏教伝来が大乗仏教でしたので余
り興味がなかったのでしょうか前にも申しましたように釈迦如来の前世の物語はこれ
以外残っていないだけに人類全体の文化遺産であります。玉虫厨子の壁画を拝観され
るだけで法隆寺を訪れた価値を見出されることでしょう。  



      捨身飼虎図

 「捨身飼虎」とは飢えた母虎と飢えた七匹の子
虎を哀れに思いわが身を投げ出す釈迦の前世の
物語で自己犠牲の精神の表現であります。
 この図はインド美術の「異時同図法」で、時間
経過の場面を一枚の絵に描くことで我が国では
平安時代に流行いたしました「絵巻物語」がそれ
に当たります。   
 図上から、上着を脱いでなぜ枝に掛けたのか
皆さんでお考えください。それではなぜズボン
を脱がなかったのか不思議であります。ここか
ら身を翻して虎の餌食になります。飛び板飛び
込みの姿勢で裳裾の棚引きから急速な落下であ
ることが分かります。
母虎の腹は凹み乳も出なかったことでしょう 。
 虎が噛み付いた王子の脇腹から血が滴るのを
舐めている凄惨な光景に竹林を持ってベールを
掛けたようにぼやかすのは心根の優しい日本人
ならでしょう。
 虎に全身を噛み付かれているのに王子は満足
げに安らかな顔をされておられます。
 インドでは百獣の王は獅子・ライオンであり、

釈迦如来は釈迦族の獅子とも言われておりましたのにどうしてインドでは獅子に比べ
影が薄いトラの餌食になられたのでしょうか?それゆえか、捨身飼虎は中国には多い
ですがインドでは捨身飼虎の遺例が見当たらないとのことです。



     施身聞偈図  

 「施身聞偈図」は偈(仏の教え)を教えてもらうた
めにわが身を投げ出すと言う説話であります。
 「諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜ
しょうめっぽう)」と羅刹(鬼)が唱えているのをヒ
マラヤで修行中の雪山童子(せっせんどうじ)(釈
迦の前世)が聞きつけ、その後を教えてくれと頼
むと今は疲れて声が出ない。ではどうするば良い
のか聞くと人間の生身と生血が欲しい。雪山童子
は了解したと言い、その後の「生滅滅巳(しょうめ
つめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」を羅刹
から聞き、後世の者のために聞いた偈を岩盤に書
き写してから羅刹の餌食になるため高台に登りそ
こから飛び降りたところ帝釈天が羅刹に姿を変え
て釈迦の修行の真剣さをテストしたという次第で、
羅刹は帝釈天に戻って落下する雪山童子を両手を
広げて受け止めめでたしめでたしという説話であ
ります。
 褌一つで裸人間のように立った鬼は珍しく普通
の人間ならこんな恐ろしい鬼には近づかないのに
後世の人のため我が身を犠牲にしてまでという釈
迦の偉大さを表現しております。
 帝釈天は踏割蓮華座に乗っており菩薩扱いです。

鬼が出入りするのは東北の鬼門で、十二支での東北は丑(牛)と寅(虎)の間の方向な
ので、鬼の表現は牛と虎の合作で角は牛の角(図はたて髪)、牙は虎の鋭い牙、褌(ふ
んどし)は虎の皮で表現いたします。右上方に尾長鳥、孔雀がおりますので探して見
てください。 



         須弥山図


 A:鳳凰に騎乗した仙人
 B:帝釈天宮・忉利天宮
 C:太陽に三本足の烏(八咫烏)
 D:月に兎か蟾蜍(ひきがえる)
 E:四天王宮
 F:飛天
 G:山麓に巻きつく双竜
 H:飛雲に乗る鳳凰
 I:海面
 J:海龍王宮(龍宮城)
 K:釈迦如来
 L:菩薩か母と娘か?
 M:迦楼羅

 

 大きな鴟尾は玉虫厨子と同じで
す。屋根勾配は古代の穏やかなも
のです。 

  

 「須弥山図」は仏教世界の中心である海上に茸状に伸びた須弥山を表現した図です。
 中国で誕生した「神仙(A)」が鳳凰に騎乗して左手で先に幡がある棹を立て右手を大
きく広げて天空を飛翔しております。仏教の飛天と違って上半身は裸ではありません。
仏教の「飛天(F)」が天から急降下してくる状況が描かれております。
 太陽のシンボルは「三本足の烏(C)」か「鳳凰」、月のシンボルは「兎(D)」か「蟾蜍(ひ
きがえる)」でこれは古代中国の「神仙思想」の宇宙観を表現したものであります。月の
図は少しはっきりいたしませんので書かれているのは蟾蜍とも言われますが私は我が
国ならば兎だろうと思っております。我が国で三本足の烏といえばお馴染みの「八咫
烏(やたがらす)」と財団法人日本サッカー協会のシンボルマークであり日本選手が左
胸に付けております。 
 「帝釈天宮(B)」は帝釈天の楼閣でその帝釈天の部下である四天王の楼閣が中腹の東
西南北にある「四天王宮(E)」であります。
 「海龍王宮(龍宮城)(J)」で釈迦(K)が竜王のために説法をするところです。釈迦の
脇侍は図から判断すると頭光、宝冠があり菩薩(M)であるようですが女性っぽく、少
し肥満体の方が竜王の奥さんでスリムなのが娘さんではないかとも言われております。
どうも、梵天・帝釈天とは違うようです。 
 現在、カビの繁殖で問題となっている「高松塚・キトラ古墳の壁画」には仏教の飛天
が現れず四神が描かれております。そういう意味ではこの画像は中国の神仙思想と仏
教との混淆という貴重なものでこの図以外ではお目にかかれないものです。インドで
誕生した飛天と中国で誕生した神仙が仲良く大陸、海を越えはるか東方の地・法隆寺
に雄飛してきた図であります。
 仙人が幡の付いた棹を持つのは天子の使いと言う目印で、崑崙山から須弥山にやっ
てきたのでしょうか。霊魂がこの仙人に連れられて崑崙山へ行くのであれば仏教の浄
土への往生願いはどうなるのでしょうか。難しい問題ですね。
 須弥山の山腹を取り巻いているのが、「二竜王(G)」の「難陀(なんだ)」「跋難陀(跋な
んだ)」竜王で須弥山を守っております。
 八部衆の「迦楼羅(N)」が「龍」を銜(くわ)えているところの場面が龍宮城の横にある
とのことで真剣に見つめましたがそれらしいところしか分かりませんでした。釈迦の
慈悲で竜が迦楼羅の災難から逃れることが出来た以前の物語でしょう。  

 

 
   百済観音像

 「百済観音立像」は「大宝蔵殿」では一展示物でしたが新
居の「大宝蔵院」では観音堂が造営されその堂の本尊として
安置されております。世界的に名高くフランスまでお出か
けになりました。出開帳などでお出掛けになる仏さんが法
隆寺では多いですがその際身代わりの仏さんが展示されま
すが身代わりだとすぐに見破られるのは百済観音像であり
ます。多くの方に愛される仏さんだけにお出掛けになると
寂しいです。今回、本尊となられましたのでお出掛けにな
ることはないでしょう。
 飛鳥時代としては止利派形式から脱皮しており、正面鑑
賞性から側面鑑賞性へと進み、側面から眺めれば像容の美
しさが実感されることでしょう。飛鳥時代のように天衣の
端が左右に広がる鰭状天衣から本像は天衣の端が前方に跳
ねる様式に変わっており鰭状天衣であればこれほどスラリ
とした長身には見えなかったことでしょう。
 六頭身の立像が多い中八頭身という珍しい像です。
 素材は樟ですが余程謂れのあるものだったのか彫りを控
え目にしてもスリムな像とならざるを得ない程細い素材だ
ったようです。背が高く異常な細身の像容が不思議な魅力

となっているのでしょう。彫りが浅いですから衣は密着状態にならざるを得ず官能的
で妖しい魅力となっております。モデルがいたのでしょうか。これほど、スリムな仏
像は何処を探しても見当たらないでしょう。東南アジアでは金箔や彩色で化粧された
のを有難がりますのでこのような古びた仏さんはそっぽを向かれることでしょう。漆
箔像でなく彩色像ですが極彩色で彩られていたのが剥落、退色した現在の像容の方が
落ち着いて奥床しい姿となっております。 
 本像の表面に木屎漆が塗られ整形されております。この木屎漆の漆の精製が不十分
だったのかひび割れが全身に及んでおります。乾漆のひび割れで眼、黒目の輪郭がは
っきりせずぼやっとなりいかにも潤んだ眼差しで哀愁に満ちた表情となっております
のとほっそりとした柔和な像は安らぎを感じさせるので女性にとっては堪らない魅力
となり人気抜群の仏さんとなっているのでしょう。

 髪の毛が蕨手型垂髪から写実に一歩進んだ自然の髪のように波型の垂髪で両肩に流
れております。
 条帛が左肩から右腰に掛かるものが逆になっております。脇侍なら左右対称になり
ますのでこの様式もありますが百済観音は脇侍ではなく単独尊ですから考えられませ
ん。インドでは左が不浄で右が清浄でありますので不浄の左肩を隠して清浄の右肩を
露にするのです。如来の偏袒右肩もそうであります。

眼は飛鳥時代の杏仁形ではなく小さく可愛らしい眼です。口もアルカイックスマイ
ルではなく可憐なおちょぼ口です。 
 本像の指先の表現は見事です。宝瓶をしなやかな左手の親指と中指で挟む妖しげな
持ち方は魅力的です。昔、奈良国立博物館に寄託している時の愛称は、宝瓶が酒徳利
に見えたのか酒買い観音と付けられたといういかにも庶民的な観音さんであります。
 まっすぐ前に出されたふっくらとした右手には宝珠が奉られていたのでしょう。

 頭光背はそれまで直接後頭部に取付けられておりましたのが台座後部に支柱を立て
てその支柱で光背を支持しております。支柱は竹の皮、竹斑を模して作った木製であ
りますが良く出来ていて見た感じ竹だと錯覚を起こす出来栄えです。さらに、支柱の
根元には山岳文様まで丁寧に彫刻されております。
 台座に光背を取り付ける支柱を立てましたので偶数が通例である台座が五角形の奇
数となっております。頭光背を支柱に取り付けた最初の像ではないかといわれており
ます。
寺伝では虚空蔵菩薩像でありましたが明治に入ると有識者によって朝鮮風観音とか
韓式観音とか呼ばれたりすることもありました。ところが、明治の終わりに倉から銅
板の透彫りの宝冠が出てきて、その宝冠を百済観音に合わせて見ると釘穴が合いまし
たので百済観音の宝冠であるということになりました。ただ、飛鳥時代にしては宝冠
は背が低過ぎるきらいがあります。
この宝冠の中央には阿弥陀の線彫があり本像は虚空蔵菩薩ではなく観音菩薩である
ことが分かりました。江戸時代の記録に「虚空蔵菩薩 百済国より渡来 元天竺像也
毎夜捧天燈申伝也」というのがありましたので大正六年から愛称として百済観音、大
正八年には和辻哲郎が『古寺巡礼記』で「わが百済観音」と紹介されて一躍世間にその
名を轟かせました。百済観音は像そのものも魅力的でありますが異国情緒あふれるネ
ーミングも魅力的であります。

 宝冠に飾られている宝石は明治時代に作られたガラス玉です。ガラスではなく青い
釉薬を塗った陶器製という説もあります。
 宝冠、胸飾り、腕釧、臂釧は銅板の透彫りで造られております。

 


       橘夫人念持仏

 「橘夫人(ぶにん)念持仏」は本格的な
阿弥陀三尊像では現存最古のものです。
 橘夫人念持仏を法隆寺では最高傑作
の仏像で素晴らしさは一入であります
が残念なことに多くの方は百済観音像
の方を好まれます。
 藤原氏を万全なものにしたのが藤原
不比等で政治の中枢にあって平城京遷
都の立役者でもあります。歴史書でお
馴染みの中臣鎌足が天皇から藤原の姓
を賜り中臣一族が藤原の姓に変わりま
したが不比等は天皇に命を出させもう
一度藤原一族を中臣の姓に戻らせて改
めて不比等の直系のみ藤原の姓を名乗

りそれ以外のものは中臣氏のままといたしました。絶対的な権力者となった藤原不比
等であります。一方の奥さんである橘三千代は多くの天皇に重宝され天皇から橘の姓
を賜る影の実力者でありました。自分たちの娘を皇族でなければなれない皇后に仕立
てたのは三千代ではないかと言われるくらいの実力者でありました。その実力者の念
持仏の造像に際して、夫の不比等の影ながらの応援もあり、中央の優れた技術者が動
員されて当時最高の技術力で造られただけに鬆もなく仕上がりは抜群で最高の出来栄
えを誇る作品に仕上がったのは当然のことといえましょう。
 光明皇后の母となられた橘夫人は華々しい活躍の裏では孤独で日夜悩むことも多く
この念持仏に夜毎念じられたことでしょう。 

 全体に丸みが加わっております。法衣は通肩で、中国式服制からインド式服制
(後述に参考写真)に変わっておりますが衣の襞が線的表現でまだ観念的で写実の過渡
期の表現であります。
 飛鳥時代の男性的厳しい顔から白鳳時代の特徴である愛くるしい童児の顔となり見
ていて惚れ惚れいたします。
 髪は巻貝状の螺髪ではなく例のない珍しい渦状の髪であります。地髪部と肉髻部が
低いです。  
 杏仁形な眼でなく後世の眼のように閉じた伏目となっております。口はアルカイッ
クスマイルですがアルカイックスマイルとは唇の両端を上に吊り上げた状態です。
 飛鳥時代のような指をまっすぐ伸ばす緊張した手から両手の指も自然なしぐさとな
っております。  
 脇侍は少し腰を振り動きが出てまいります。この動作の究極が薬師寺の薬師三尊像
の脇侍の三曲法であります。捻った腰は菩薩が女性らしくなる前触れであります。事
実、脇侍のバストの辺りは少し膨らんでおります。
 施無畏・与願印の観音は珍しいです。

 後塀(こうへい)、光背は素晴らしいの一言ですがただ残念なことに蓮の茎が立ち上
がっている蓮池(れんち)が身長が足らず見えないです。が、お寺の心配りで大宝蔵院
の中庭に蓮池文を拡大した塼瓦が敷き詰められておりますのでどうぞご覧ください。
 円光背は外周から火炎、忍冬唐草、曲線を組合せた文様、八葉蓮華等の文様を驚く
べき細緻さで透彫されており設備、道具類もない時代によくぞ出来たものです。当時
の工人の技術力は現代我々が想像する以上のものを持っていたようであります。光背
は百済観音の光背を模したらしいですが橘夫人念持仏の方がずっと精緻に造られてお
りただただ驚嘆するばかりです。仏教での八葉とは葉でなく弁のことです。

 五扇屏風のような後塀が三面鏡のように3枚の折りたたみになっておりますが平板
の鋳造は難しいので分けて鋳造されたのでしょう。
 天蓋付の化仏が5体、極楽浄土での蓮華の台(うてな)に下生した菩薩が5体があら
わされております。菩薩は寛いだ表情に見えその喜びを上空に翻った天衣が表してお
ります。
    
 厨子の仏殿部が高過ぎ頭でっかちのように見えます。もう少し低くすれば安定感の
あるものになったことでしょう。
 金堂の天蓋を模した天蓋で、屋根ではないので宮殿像とは言い難い面があります。  
 台座の四面に描かれた絵画は岩絵の具を膠で溶いたので剥落が酷く残念ながら今は
肉眼での識別はできません。


 服装が中国の僧祗支からインド式服制に変わりましたので参考までに写真を掲載
しましたが適当な写真だったかどうかは分かりませんが。

           


     飛 天 像

 「飛天像」は金堂像を荘厳するために3天蓋の上辺に
付けられております。蓮華の台(うてな)に正座する表
情が愛らしい飛天でキリスト教のエンジェルのイメー
ジがありひょっとするとこの飛天のルーツはインドで
はなくギリシャ・ローマであるのかも知れません。
 飛天はいろんな楽器、横笛、ばち、琵琶、鼓、笙、
竪笛を持つ表情豊かでぬくもりを感じさせる木彫像で
す。
 頭の双髻は「中宮寺の弥勒菩薩像」と同形です。
 天衣が像本体に比べこれほど大きいのは珍しく西洋
の天使の雄大な翼のイメージでしょうか。この舞い上
がる天衣ではスピードを出したり停止して浮遊するの
もお手のものでしょう。台上に座しているという感じ
ですが天空に浮かんでいる状態で仏を琵琶で奏楽供養
しております。
 上半身は裸ではなくファーベストのような上着(肩
着)を着けております。

 顔貌は心が和む白鳳時代の童子の顔であります。
 焔の如く燃え上がる左右対称の領巾(ひれ)(羽衣)は唐草風に透彫したものです。左
右に蓮のような丸いものがあり唐草文は光背と領巾を兼ねたものでしょうか。      

現存最古の「飛仙図」が法隆寺金堂に安置されております「薬師如来像」の台座内側に
描かれております。男性の飛仙で飛行には領巾だけで飛雲がありません。

 


           飛 天 像

 「飛天像」は金堂の長押
上にある小壁画です。
 昭和24年の悲しい出来
事で、アジャンター石窟
の壁画と並ぶ世界二大壁
画と称された金堂の大壁
画は今は痛ましい姿とな
ってしまいました。ただ、
小壁画は幸いなことに金
堂の解体修理のため取り

外してありましたので無事でした。
 飛天が二体並んで楚々たる美しさで舞い降りてきております。丸顔、上半身は裸、
胸飾り、臂釧、足釧を着け天衣は長く曲線状に棚引きスピード感にあふれております。
頭を挙げて本尊に視線を送りながら右回りに回る右繞(うよう)礼拝であります。
 足裏を見るとスピードをつける為キックしているように見えます。二体とも白魚の
ような美しい左手に華盤を捧げて散華供養をしております。瑞雲の霊芝雲が躍動感あ
ふれる天衣に寄り添って流れております。 
 飛天の視線が水平方向にあるように見えるのは本尊の高さ近くまで降下してきたの
でしょう。
 顔付きをみるとどうも男性らしいですが時代が進むにつれて我が国では三保の松原
の天人のイメージが強くて天人と言えば女性と決め付けており圧倒的な男性世界の仏
の世界を荘厳するのに女性の天人は適任でしょう。菩薩も釈迦の王子時代の姿と言わ
れておりましたのが時代とともに女性らしく変わってまいります。
 「大宝蔵院」はこの飛天図と上記の飛天像とが同じスペースに展示されており、古代
の飛天の絵と像が同時に拝見できますのでじっくりとご覧ください。

 

   
   百万小塔(模造品)

 「百万小塔」は高さ20㎝の小塔で、この小塔を百万基造ら
れたことが名前の由来です。この百万小塔を十大寺に十万
基ずつ下賜され、そのなかに法隆寺が入っておりこのこと
は法隆寺は十大寺に数えられて私寺ではなく官寺となって
いたことになります。現在、下賜された他の寺院には一基
も現存しませんが驚くべきことに法隆寺には約四万四千基
も残っております。
 写真は法隆寺から頂いた模造品です。現物は歴史を感じ
る状態になっております。
 孝謙上皇・僧道鏡対淳仁天皇・恵美押勝の戦いで孝謙上
皇が勝利を収められ相手側の淳仁天皇を退け再び称徳天皇
として重祚されました。その称徳天皇が国家鎮護、戦没者
の慰霊を祈願して百万小塔を造られました。

 塔には舎利を納めなければ塔とは言えません。釈迦の骨を「肉舎利」と言い、その数
は限られたものですから釈迦の教えでもある経典の方が舎利より尊いと解釈しこれを
肉舎利に対して「法舎利」といいます。小塔には法舎利として六種の陀羅尼の内四種
「根本」「相輪」「自心印」「六度」の経典が納められております。この陀羅尼経の印刷物は
世界最古の印刷物として著名です。聖武天皇が諸国に建立された国分寺の塔も金光経
最勝王経を祀る法舎利塔でした。
 百万小塔は天平宝字八年(764)から宝亀元年(770)までの六年もの長い歳月を掛けて
造られました。
 塔身は桧材、蓋代わりの相輪は木斛(もっこく)、桂、桜材でろくろ挽きで造られて
おりますが塔の屋根が深いので作業は困難を極めたことでしょう。

 


       新休憩所   

          旧休憩所

 大宝蔵院が出来るまでは「旧休憩所」を利用しておりました。旧休憩所では休憩する
にも壁もなく飲み物の販売機も何もない寂しいものでした。「新休憩所」は飲み物の販
売機や売店もあり寛げる空間となっております。ただし、喫煙できるのは旧休憩所の
みです。 大宝蔵院をでるとトイレ、新休憩所、大宝蔵殿、旧休憩所と続きます。



       大宝蔵殿  


 「大宝蔵殿」に収蔵されておりました
美術品は「大宝蔵院」に移されました。
 先述の聖徳太子の1380年御聖諱の
2001年を記念して、この大宝蔵殿で毎
年春と秋の二回「法隆寺秘宝展」が特別
公開されることとなりました。
 法隆寺秘宝展は長期間開催されます
のでどうぞご覧ください。拝観されま
すと法隆寺の宝物の多さに驚嘆される
ことでしょう。

 


  東大門に向かう左側に
法隆寺では珍しい桜並木が
あります。
   


           東 大 門  

 我が国には国宝の門は20棟しかありませんがそのうち3棟が法隆寺にあります。国
宝指定の「東大門」は後世の改築も少なく、天平当時の面影をよく留めた門として貴重
なものです。
 門の出入口の前方に見える屋根は夢殿の屋根で、西院と東院の境にありますため、
通称「中の門」とも呼ばれます。なぜか、東院と西院とは少し離れております。
 平安時代に南向きの場所より移築されましたが元あった場所は不明です。 


 落書きをされた柱


     三棟造 

  「三棟造(みつむねづくり)」とは緑矢印の所に棟がありそれが三つあるからです。
ただ、中央の棟は天井に隠れた見えません。三棟造は天平時代の門とか回廊に採用さ
れました。この度、再建されました薬師寺の回廊が三棟造です。
 
 上記の保護材が巻きつけられた柱は、心無い者によって「みんな大スき」と彫り込む
落書きをされましてこれからどのように補修するかを検討中とのことです。多分面白
半分でやったと思いますが気の遠くなるような年月、この天平時代の建物を守るため
心血を注いだ先人たちの苦労が分かっていないからでしょう。1300年間、守ってこら
れた先人たちの遺志を継いで未来永劫守っていかなければならないのに。

 


         もちの木

 東大門から夢殿に向かう参道の左側に大きな「もちの木」が赤い実をたわわに付けて
おります。ガイドの時、女性の方は興味を示され質問されますので私は近づくと知っ
ておられようが関係なくあの木はもちの木ですと申し上げておりました。

 


          東院通用門

 「斑鳩宮」は601年着工し605年
完成いたしましたが643年に焼
失いたしました。
 僧「行信」は斑鳩宮が焼失した
跡が荒れ放題になっているのを
嘆き朝廷に具申して再建されま
したのが「上宮王院」です。
 当時の伽藍は八角仏殿(夢殿)
は瓦葺でしたが瓦葺は少なく他
の建物は桧皮葺でした。瓦葺は
礎石上の柱でしたが桧皮葺は掘
立柱でした。    

 平安時代に法隆寺に組み入れられ法隆寺の東院となりました。
 通常、人々は東院に行くとは言わず夢殿に行くと言われるように門の標識にも「上
宮王院夢殿」となっております。上宮王院とは東院のことで聖徳太子を上宮王と呼び
太子一族のことを上宮王家の人々と呼びます。

 


             夢  殿

 「夢殿」は東院の金堂で、世界的な建築家ブルーノ・タウトが夢殿を「建築の真珠」と
絶賛いたしましたように際立って優れた姿をしております。

 八角でありながら円堂と呼びます。我が国では全くの円堂は中国と違って造られま
せんでした。それには、完全な円より八角の方が変化 に富み趣があったからでしょ
う。
基壇、柱、須弥壇共に八角形で構成されております。
 夢殿とは平安時代の命名でそれまでは「八角仏殿」「八角円堂」「正堂」などと呼ばれて
おりました。後の言い伝えですが聖徳太子が夢殿で三経の注釈書を作成中、難解点が
出る度に夢の中に仏が現れて解説を受けたという説話によるものです。ただ、聖徳太
子の夢殿とは焼失した前の夢殿(八角仏殿)であります。
 夢殿とは響きの良いネーミングにしたもので建物に相応しく人々から親しまれる所
以でありましょう。
降雨の少ない中国建築から我が国の気候風土に適するよう鎌倉時代の大改築で屋根
が2mも高くなり軒の出も70㎝も長くなって少し重苦しいものとなりました。ただ、
幸せなことに近くから眺めることができますので写真のように軒の曲線が優しくしか
も穏やかな屋根勾配となっておりますが東大門から夢殿を眺めますと屋根が少し目立
っております。
 古代の伽藍には金堂と塔がなければなりません。そこで、夢殿は聖徳太子の等身大
で造像されました本尊・救世観音像をお祀りする金堂と頂上にあります舎利塔とで金
堂と塔を兼ねた建物となっております。
 「宝珠露盤」は青銅製で、露盤、反花、蓮華、花実、宝瓶、天蓋、光明の構成です。
 法隆寺と斑鳩宮は聖徳太子を供養するためのものでありましたのが法隆寺が私寺か
ら官寺扱いとなりましたので聖徳太子を供養するための御堂が必要になり、焼失した
斑鳩宮の跡地に上宮王院(東院)が再建されたのでしょう。それゆえ、東院は供養する
伽藍ですので政に関与する西院とは離れていている方が良かったのかも知れません。

 八角円堂は霊廟、廟堂でありますので通常は伽藍の中心から離れたところにありま
すが太子の供養堂である夢殿は東院伽藍の中心にあります。  


 
    救世観音像


  仏像(中国)

 「救世観音立像」は聖徳太子の等身大像で在世中に制作されたということですが像高
は180㎝もあり古代では長身過ぎます。飛鳥尺(高麗尺)の5尺とされたのでしょうか
それとも、標準身長での造像では抵抗があったのでしょうか。太子の御影像が太子は
救世観音の生まれ変わりという信仰が起きて救世観音とされたのでしょう。救世に主
を付けると救世主となりキリストです。

 樟の一木造で木彫像では現存最古の遺品です。 
 扁平な体躯で正面鑑賞性、左右対称となっており止利仏師の仏さんそのものです。
 宝冠は大型の透彫りで
豪華絢爛たるものですがよく見えませんので写真で満足して
ください。宝冠には阿弥陀の化仏がありませんが飛鳥時代には化仏が無いものも結構
あります。逆に、白亳があり飛鳥時代の仏像で白亳があるのは珍しいといえましょう。
 
胸前で火炎付宝珠をややこしい手付きで捧げております。蕨手型垂髪(青矢印)、四
段に反る鰭状天衣(赤矢印)など飛鳥時代の特徴です。
 面長な顔、飛び出した白亳、眼、鼻、分厚い唇と少し異様な顔貌です。
 下地の白土を塗った後金箔で押さえるという例を見ない工法で下地の白土は金の輝
きを押さえ上品な仕上がりにしております。
 金堂の釈迦如来の脇侍による模古作という説もあります。八角の厨子は昭和15年作
です。
 
 明治17年、岡倉天心・フェノロサは寺僧が絶対秘仏である救世観音像を開扉すると
仏罰が当ると反対したにもかかわらず強権発動で、何重もの布、和紙で
厳重に巻かれ
いたのを取り外させましたら長い間秘仏だったため保存状態良好の本尊が現れまし
た。
金銅像と見間違えるほど漆箔が残っており驚きは一入だったことでしょう。
 フェノロサのお陰で今までは信仰の対象だった仏像が鑑賞の対象にもなり国を挙げ
て文化財の保存に努めるようになりました。

 救世観音像の開扉期間は春季の4月11日~5月18日と秋季の10月22日~11月22日で、
この時期は観光シーズンであり混雑いたしますがよく待っても2.30分です。しかし、
待ち時間が短いのは皆さんが協力し合って素通り状態の拝観をされているからです。
じっくりと拝観を希望される方は朝早くか夕方に夢殿を訪ねられることです。
 拝観時間に制約がある為、見応えのある姿、大型で素晴らしい透彫の宝冠、金銅像
のような鮮やかな漆箔などは写真でよく目に焼き付けてからお訪ねください。

  


        道詮律師像

 「道詮律師(どうせんりっし)像」は
平安時代作です。平安時代を迎えま
すと仏像の制作は「木彫」が主流とな
りますが写実を重んじる肖像彫刻は
「塑造」で制作されることもありまし
た。
恰幅のよい身体つきに
比して彫り
の深い顔は温厚篤実そのもので見る
からに心優しい僧を表しております 。
 
眼ははるかかなたを眺めておりい
かにも瞑想しているようであります
顔の表現は見事ですが頸から下の
表現は今ひとつとさえませんが少し
滑落しているところがあるからそう
感じるのかも知れません。 

 夢殿が天平時代に再建されて約100年を経た時には建物の傷みも出ており、その傷
みを道詮律師が私財をなげうって修理をされたのに感謝して像を夢殿に安置されたの
でしょう。
 手には次の「行信僧都像」のように如意を持っていたと思われます 。
台座は礼盤座です。
 塑像は輸送途中に破損の恐れがあるため出開帳はありませんので国宝指定の塑像を
しっかりとご覧ください。

 


      行信僧都像

 「行信僧都(ぎょうしんそうず)像」は
天平時代に多く造られた脱活乾漆造で
唐招提寺の鑑真和上像と並んで天平時
代の肖像彫刻の二大傑作として著名で
す。ただ、残念なことに夢殿の東北の
隅に安置されていて大変見辛いことで
す。近畿以遠の寺院であれば看板的な
仏像となるのですが。
 頭頂が尖り、眼は切れ長で吊り上り、
大きな耳、頸は太く、慈悲の僧らしく
なく異様な顔貌でありますが夢殿が焼
け野原になっている荒廃ぶりを見て涙
を出して嘆いたと言う情熱家だったよ
うです。法隆寺の再建に貢献、さらに
多くの宝物を法隆寺に奉納された方ゆ

え経費の掛かる脱活乾漆造で制作され追加安置されたのでしょう。
 法衣は乾漆だけに精細に描写されております。
 「如意」を右手は上から軽く握り左手は下から支えております。如意の原形は今では
珍しくなりました「孫の手」です。異説もあります。
行信僧都は高名な仏教学者で仏教界をリードする重鎮的存在でした。 

 


        礼 堂

 

 「礼堂」は当初の中門の跡地に鎌倉
時代に新造されました。このことは
古代では中門が通路の門としていた
だけでなく礼堂の役割を担っていた
名残でしょう。 

 


        袴腰付鐘楼

「袴腰付鐘楼」では現存最古の遺構で
す。袴腰付にするのは「貫」の技法がま
だ伝わる以前、楼造の鐘楼での構造上
の問題点、例えば、鐘を突いた時の横
揺れや横殴りの雨風による建物の被害
を解決すべく袴腰付鐘楼が考案されま
した。今までの鐘楼とは違い屋根が切
妻屋根から変化のある入母屋屋根と変
わりましたのと袴腰のデザインが受け
ましてこれ以降袴腰付鐘楼の方が多く
造立されるようになりました。特に、
この袴腰付鐘楼はデザインが良く見応
えのある鐘楼ですが立ち止まって見と
れる方は殆ど居られないという悲しい
現実です。夢殿をでると中宮寺へ一目
散です。このことは、法隆寺の拝観を
一日どころか短時間で済まそうとする

ためでせめて23日掛けて拝観してほしいものです。それと、法隆寺は時期をおいて
来られるとまた違ったものが見えてきて改めて感動が起こるお寺です。
 中宮寺の銘が入った天平時代の鐘が釣ってあるとのことですが今だ鐘の音を耳にし
ておりません。  
 袴腰部分が総べて白壁という袴腰付鐘楼もありますがこの鐘楼も当初は白壁のみだ
ったらしいです。  

 


         伝 法 堂(妻側) 

 「伝法堂」の前身は天平時
代の有力な貴族の邸宅の遺
構で、平安、鎌倉時代の貴
族の住宅の遺構が存在しな
いだけに貴重なものといえ
ましょう。建物は橘夫人
(たちばなぶにん)の邸宅の
一屋と言われておりますが、
橘夫人とは有名な「橘夫人
念持仏」の「橘三千代」かそ
の三千代の子息の娘すなわ
ち姪にあたる「聖武天皇」
夫人の「橘古那可智」とも

言われております。
 橘三千代は追賜で正一位までになりますが一方の古那可智も聖武天皇夫人という高
貴な身分だけに決めがたいですがどうも古那可智の方が有力です。ただ、寺院
建築様
式が貴族の住宅に取り入れられたのは不思議なことでしかも土間である筈が板敷きに
なっております。建物は橘夫人が何に使われていたかは不明です。
 
桁行五間の内三間が部屋で残りの二間が吹き放しの床だったのを総て室内空間に改
しております。
 大虹梁と小虹梁に三つの蟇股の「二重虹梁蟇股」で一番整った形をしておりますゆえ
天平時代の代表的な二重虹梁蟇股と言われております。際立つ白壁と木組だけで構造
美の極致を造る感覚は日本人以外考えられないことでしょう。いずれにしても貴族の
邸宅が現存したことは喜ばしいことです。長い間の修築も終わり美しい姿が再びお目
に掛かれるようになりました。
 野屋根がないので軽快で穏やかな屋根となっております。妻側の形は最高に美しい
と言われております。
 横材が細くして縦の線が強調されるのが天平建築の特徴であります。
 東院の講堂であったのが伝法堂と呼称変更になりましたが堂名の由来は不明です。

 余談ですが古那可智が東大寺に奉納された「橘夫人奉物」と墨書されたツゲの札を付
けられた「犀角把白銀葛形鞘珠玉荘刀子(さいかくのつかしろがねかずらがたのさやし
ゅぎょくかざりのとうす)」が昨年の正倉院展に展示され話題を呼びました。

 

 
      北室院表門

 「北室院表門」は現存最古の平唐門として有名
です。輪垂木、蟇股は優れた形をしており一番
優美な唐破風屋根と評判をとっております。こ
のような門は建築費が掛からないので修復でな
く新しく建て替えられますため古い建造物は残
っておりません。
 唐破風の唐は中国のことではなく、唐破風は
我が国で考案されたものです。

 平唐門は平安時代から建築が起こりますがこ
の門は室町時代の造営です。 

 

 

 

 

 中宮寺の正面は西向きです。
中央が正門で左門が通用門で
す。ここまで来ると人影も少
なくなります。
 御堂は南向きです。

 


  弥勒菩薩半跏像

 弥勒菩薩と言えば何と言っても中宮寺の「弥勒
菩薩半跏思惟像」でしょう。
 弥勒菩薩像は「如意輪観音像」との説があります
が飛鳥時代制作ということですから弥勒菩薩と考
えるほうが無理のないところと思われます。
 多くの方が拝観してその素晴しさに大変感動し
たとおっしゃっいます。この像は年齢に関係なく
安らぎを与えるようです。

 「半跏思惟(はんかしゆい)」とは片足を反対の足
の上に乗せ、もう一方の片足をだらりと下げる坐
り方で、さらに、左手を頬に向けいかにもロダン
の「考える人」のように思索する姿のことです。
 
半跏思惟像は平安時代になると造られなくなり
ます。
 中国ではこのように思索する像は釈迦如来の前
身で修行中の思惟状態である「悉達太子像」と言わ

れております。と言いますのも「弥勒菩薩」は釈迦入滅後56億7千万年を経ると釈迦
如来のリリーフになることが
間違いなく決まっているので思惟する必要が無く、ただ
時が来るのを待てばよいと
言う考え方らしいです。この様式の像は韓国である運動の
リーダーが弥勒菩薩の化身だと言って民衆にアピールしたことで弥勒菩薩ブームが起
きましたときの弥勒菩薩の様式で、その様式がわが国に請来して造像されたのであり
ます。弥勒菩薩の生まれ変わりといえば有名な中国唯一の女帝「則天武后」がそうであ
ります。
 仏像がまず最初に、わが国に請来したのは弥勒菩薩と「釈迦如来」ではないかといわ
れているくらい弥勒菩薩は早くお見えになりました。弥勒菩薩は釈迦如来の弟子であ
り、釈迦と同じく現存された方とも言われております。
 弥勒菩薩は釈迦入滅後インドならではの数字56億7千万年後に釈迦のリリーフと
して我々を導いていただける仏さんです。それでは、長い無仏の時代はどうなるのか
いいますと「地蔵菩薩」が我々を守ってくださるのです。
 弥勒菩薩(マイトレーヤ)は将来、釈迦如来の代理となられるくらいですから優れた
弟子だったと想像されますのに「十代弟子」に入っていないのは何故でしょうか。弥勒
菩薩は現在はまだ未熟ですが将来性を買われて56億7千万年という期間、兜率天での
修行の機会を与えられたのではないでしょうか。それで、思惟の姿になったのかも知
れません。

 本尊は飛鳥時代は霊木信仰の一木造の時代でしたが、本尊は後世の寄木造のように
規則的に木を組み合せるのではなく、多くの部材を不規則に組み合せて造像されてお
ります。この珍しい制作方法を取らざる得ない何か謂れのある樟材を集めた結果細切
れの部材に加工して組み上げられたのでしょうか。飛鳥時代はまだ樟の大木が存在し
ていた筈です。

 弥勒菩薩半跏思惟像は美少女のような楚々たる聖女で、精細な右手の仕草は思惟と
いうより何かはにかんでいるように見えいじらしい姿です。胸が膨らみ右手で頬杖を
付く姿は乙女の身体つきのようであります。それと彩色は剥落して下地の黒漆が表れ
ておりますのも魅力の一つでしょう。宝冠が失われて双髻が表れたことも幸せでした。

 飛鳥時代の特徴である蕨手型垂髪で、瓔珞は欠失したのかそれとも如来待遇の菩薩
ですから装飾品を身に着けなかったのかは不明です。一部飾りを着けておられても質
素なものだったことでしょう。しかし、椅子の榻(
台座)は立派なものとなっておりま
す。
 参考までに中国での弥勒菩薩像は椅子に坐り足をX字に交差させているものが殆ど
であります。

 


                            画 中西 雅子

                           

 ガイド活動の集大成ともいうべき「法隆寺のお話」は皆さんにとりまして満足いただ
ける内容、画像ではなかったかもしれませんが我々老夫婦がねじり鉢巻で作成いたし
ました。どうか、法隆寺を訪れたことのない方、訪れても12回の方はこの資料を
参考にしていただき一度とは言わず何度でもお訪ねいただければ幸いです。
 法隆寺は訪れるたびに新たな感動を呼ぶに違いないと確信しております。
 皆様のお越しを優美な南大門が両手を広げてお待ちしておりますので心ゆくまで法
隆寺をご堪能いただき癒しの時間をお過ごしください。   中西 忠


 

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