【無牆藝術史】
盤中無飧時:伯納.李奇生器器 ⊙楊育睿?? 如果是
Bernard Howell Leach,1887-1979バーナード・リーチ
重要....
藝術家雜誌社
◣◥ ▌《藝術家》574期2023 3月號要目 ▌◤◢
【3月專輯|近未來的科技、身體與生命想像】
バーナード・リーチ(1881年~1979年)は、日本をこよなく愛し陶芸界に大きな影響を与えたイギリスの陶芸家です。明治42年
(1909年)に来日し上野桜木町でエッチング教室を開設しました。その後、白樺派の同人柳宗悦の紹介で六代目尾形乾山の門下となり楽焼きの研究に打ち込
み大正5年(1916年)には乾山の本窯を譲り受けました。我孫子の天神山にあった柳宗悦の別荘内に窯を築きました。大正8年に窯が焼失するまでの3年
間、我孫子時代といわれるように陶作に熱中し数多くの名品・名作を作り出しました。
出版のお知らせ
柳宗悦の厳しい目で選ばれた日本民藝館のリーチコレクションから、さらに180点を精選。エッチングから陶磁器、家具デザインにいたるまで、リーチ
芸術の全てが味わえる初の作品集。巻末にリーチとの思い出を綴った日本民藝館理事・水尾比呂志氏のエッセイと、お茶の水女子大学准教授・鈴木禎宏氏による
リーチ入門論考を収録。
『日本民藝館所蔵 バーナード・リーチ作品集』
編集・日本民藝館学芸部 監修・水尾比呂志
撮影・杉野孝典
B5並製 160頁(うちカラー128頁)
本体価格2,800円+税
※日本民藝館売店、一般書店でお買い求め下さい
※展覧会開催期間中、来館者には特別価格で販売予定
筑摩書房刊
バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887年1月5日 - 1979年5月6日)はイギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問し、白樺派や民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館設立にあたり柳宗悦に協力した。
1903年、芸術家を志してロンドンのスレード美術学校に入学するが翌年父が死んだため銀行員となり、1907年からロンドン美術学校でエッチングの技法を学んだ。そのとき、ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本へ戻って東京・上野に居を構えた。彼は生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、1917年には彼らの本拠であった我孫子にて版画指導を行った他、イギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。またバーナードは富本憲吉と知り合い、彼とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。1912年に6代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出した。後に7代乾山の名を免許された。
この時リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、バーナードは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。
彼らは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。1934年、バーナードはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日し日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はバーナードの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本で彼の名を知らしめるもとになった。
バーナードは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。彼は陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、彼の制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国でカウンターカルチャーやモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。バーナードは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを 中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しバーナードと働いて大きな影響を受けた。また長年バーナードの助手だったマイケル・カーデューやオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。またたびたび来日し各地で作陶したほか、『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介、展覧会も開きその理論を解説した。
バーナードは1940年、アメリカ人画家マーク・トビーとの交友を通じバハーイー教に入信していた。1954年、イスラエルのハイファにある寺院に巡礼に行ったバーナードは「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したい」との感を強くした[1]。
彼は1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、彼は視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかった。1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年には国際交流基金賞を受賞した。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は1977年に彼の大規模回顧展を開いたが、彼はその2年後逝去した。リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、バーナードやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。
Bernard Howell Leach, CBE, CH (5 January 1887 – 6 May 1979), was a British studio potter and art teacher.[1] He is regarded as the "Father of British studio pottery"[2]
1909 he arrived in Japan for a second time. At Tokyo he taught etching, gave also talks about etching, also about the ideas of William Morris. The meetings were attended by Mushanokōji Saneatsu, Shiga Naoya, Yanagi Sōetsu and others from the "Shirakaba-Group",[Sub 1] who were trying to introduce western art to Japan after 250 years of seclusion. In etching, Satomi Ton, Kojima Kikuo, and later Ryūsei Kishida, became pupils of Leach.
About 1911 he became fascinated by pottery of Raku-yaki-style, and through introduction by Ishii Hakutei he began to study under Urano Shigekichi 浦野繁吉, 1851-1923), who stood as Kenzan 6th in the tradition of potter Ogata Kenzan (1663 -1743). Helping as interpreter for technical terms was the potter Tomimoto Kenkichi, whom he had met already earlier. From this time Leach wrote articles for the Shirakana.
1913 he also drafted covers for Shirakaba and "Fyūzan"[Sub 2] Attracted by the in Peking living Prussian philosopher and art scholar Dr. Alfred Westharp he moved 1915 to Peking and took there the Name 李奇聞 (for "Leach"), but returned the following year to Japan. - It was the year 1919, when young Hamada Shōji visited Leach for the first time. Leach received a kiln from Kenzan and built it up in Yanai’s garden and called it Tōmon-gama. Now established as a potter, he decided to move to England.
1920, before leaving, he had an exhibition in Osaka, where he met the great potter Kawai Kanjirō. In Tokyo, a farewell exhibition was organized.
In the 1930s Leach met Mark Tobey, a fellow artist and teacher at Faith. In 1934, Tobey and Leach traveled together through France and Italy, then sailed from Naples to Hong Kong and Shanghai, where they parted company, Leach heading on to Japan. Leach formally joined the Bahá'í Faith in 1940. A pilgrimage to the Bahá'í shrines in Haifa, Israel, during 1954 intensified his feeling that he should do more to unite the East and West by returning to the Orient "to try more honestly to do my work there as a Bahá'í and as an artist..."[3]
Many potters from all over the world were apprenticed at the Leach Pottery, and spread Leach's style and beliefs. His British associates and trainees include Michael Cardew, Katherine Pleydell-Bouverie, Nora Braden, David Leach and Michael Leach (his sons), Janet Darnell (whom Leach married, 1956), William Marshall, Sylvia Hardaker, Kenneth Quick and Richard Batterham. His American apprentices include Warren MacKenzie (who likewise influenced many potters through his teaching at the University of Minnesota), Byron Temple, Clary Illian and Jeff Oestrich. He was a major influence on the leading New Zealand potter Len Castle who travelled to London to spend time working with him in the mid-1950s. Many of his Canadian apprentices made up the pottery scene of the Canadian west coast during the 1970s in Vancouver.[citation needed]
Leach was instrumental in organizing the only International Conference of Potters and Weavers in July 1952 at Dartington Hall, where he had been working and teaching. It included exhibitions of British pottery and textiles since 1920, Mexican folk art, and works by conference participants, among them Shoji Hamada and US-based Bauhaus potter Marguerite Wildenhain. Another important contributor was Japanese aesthetician Soetsu Yanagi, author of The Unknown Craftsman. According to Brent Johnson, "The most important outcome of the conference was that it helped organize the modern studio pottery movement by giving a voice to the people who became its leaders…it gave them [Leach, Hamada and Yanagi] celebrity status…[while] Marguerite Wildenhain emerged from Dartinghall Hall as the most important craft potter in America."[4]
De Waal's book on Bernard Leach was published in 1998.[11] He described it as "the first 'de-mystifying' study of Leach."[12] "The great myth of Leach," he said, "is that Leach is the great interlocutor for Japan and the East, the person who understood the East, who explained it to us all, brought out the mystery of the East. But in fact the people he was spending time with, and talking to, were very few, highly educated, often Western educated Japanese people, who in themselves had no particular contact with rural, unlettered Japan of peasant craftsmen".
De Waal noted that Leach did not speak Japanese and had looked at only a narrow range of Japanese ceramics. [Sub 3]
藝術家雜誌社
◣◥ ▌《藝術家》574期2023 3月號要目 ▌◤◢
【3月專輯|近未來的科技、身體與生命想像】
バーナード・リーチ(我孫子市)
出版のお知らせ
『バーナード・リーチ作品集』
2012年6月19日刊行予定
柳宗悦の厳しい目で選ばれた日本民藝館のリーチコレクションから、さらに180点を精選。エッチングから陶磁器、家具デザインにいたるまで、リーチ
芸術の全てが味わえる初の作品集。巻末にリーチとの思い出を綴った日本民藝館理事・水尾比呂志氏のエッセイと、お茶の水女子大学准教授・鈴木禎宏氏による
リーチ入門論考を収録。『日本民藝館所蔵 バーナード・リーチ作品集』
編集・日本民藝館学芸部 監修・水尾比呂志
撮影・杉野孝典
B5並製 160頁(うちカラー128頁)
本体価格2,800円+税
※日本民藝館売店、一般書店でお買い求め下さい
※展覧会開催期間中、来館者には特別価格で販売予定
筑摩書房刊
バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach、1887年1月5日 - 1979年5月6日)はイギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問し、白樺派や民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館設立にあたり柳宗悦に協力した。
目次 |
経歴
1887年(明治20年)、植民地官僚だったイギリス人の父とイギリス人の母の間に香港で生まれた。母は出産で死去したため日本にいた母方の祖父に引き取られ、関西に住んだ。祖父は京都の第三中学校や彦根中学校で英語教師をしていた。来日から4年後、植民地官僚だった父の再婚にともない香港に戻ったが、1895年、父の転勤でシンガポールへ移った。1897年、英国本土に移され教育を受ける。1903年、芸術家を志してロンドンのスレード美術学校に入学するが翌年父が死んだため銀行員となり、1907年からロンドン美術学校でエッチングの技法を学んだ。そのとき、ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本へ戻って東京・上野に居を構えた。彼は生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、1917年には彼らの本拠であった我孫子にて版画指導を行った他、イギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。またバーナードは富本憲吉と知り合い、彼とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。1912年に6代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出した。後に7代乾山の名を免許された。
この時リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、バーナードは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。
彼らは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。1934年、バーナードはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日し日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はバーナードの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本で彼の名を知らしめるもとになった。
バーナードは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。彼は陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、彼の制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国でカウンターカルチャーやモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。バーナードは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを 中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しバーナードと働いて大きな影響を受けた。また長年バーナードの助手だったマイケル・カーデューやオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。またたびたび来日し各地で作陶したほか、『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介、展覧会も開きその理論を解説した。
バーナードは1940年、アメリカ人画家マーク・トビーとの交友を通じバハーイー教に入信していた。1954年、イスラエルのハイファにある寺院に巡礼に行ったバーナードは「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したい」との感を強くした[1]。
彼は1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、彼は視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかった。1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年には国際交流基金賞を受賞した。ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館は1977年に彼の大規模回顧展を開いたが、彼はその2年後逝去した。リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、バーナードやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。
参考文献
- 鈴木禎宏 『バーナード・リーチの生涯と芸術』 ミネルヴァ書房、2006年
- バーナード・リーチ述 柳宗悦編著 『焼物の本』 共同通信社、 1985年
- バーナード・リーチ・福田陸太郎訳 『バーナード・リーチ詩画集』五月書房 、1974年
- バーナード・リーチ・福田陸太郎訳 『東と西を超えて 自伝的回想』 日本経済新聞出版社 1982年
- 『バーナード・リーチ日本絵日記』 柳宗悦訳、水尾比呂志補訳 講談社学術文庫 2002年
- エドモンド・ドゥ・ヴァール 『バーナード・リーチ再考』 金子賢治ほか訳 思文閣出版 2007年 ※論議を呼んだ大著。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bernard_Leach
Bernard Howell Leach, CBE, CH (5 January 1887 – 6 May 1979), was a British studio potter and art teacher.[1] He is regarded as the "Father of British studio pottery"[2]
Contents |
Biography
Early years (Japan)
Leach was born in Hong Kong, but spent his first years in Japan, until his father moved back to Hong Kong in 1890. Later, he attended London Art School, where he studied etching. Reading books of Lafcadio Hearn he became interested in Japan.1909 he arrived in Japan for a second time. At Tokyo he taught etching, gave also talks about etching, also about the ideas of William Morris. The meetings were attended by Mushanokōji Saneatsu, Shiga Naoya, Yanagi Sōetsu and others from the "Shirakaba-Group",[Sub 1] who were trying to introduce western art to Japan after 250 years of seclusion. In etching, Satomi Ton, Kojima Kikuo, and later Ryūsei Kishida, became pupils of Leach.
About 1911 he became fascinated by pottery of Raku-yaki-style, and through introduction by Ishii Hakutei he began to study under Urano Shigekichi 浦野繁吉, 1851-1923), who stood as Kenzan 6th in the tradition of potter Ogata Kenzan (1663 -1743). Helping as interpreter for technical terms was the potter Tomimoto Kenkichi, whom he had met already earlier. From this time Leach wrote articles for the Shirakana.
1913 he also drafted covers for Shirakaba and "Fyūzan"[Sub 2] Attracted by the in Peking living Prussian philosopher and art scholar Dr. Alfred Westharp he moved 1915 to Peking and took there the Name 李奇聞 (for "Leach"), but returned the following year to Japan. - It was the year 1919, when young Hamada Shōji visited Leach for the first time. Leach received a kiln from Kenzan and built it up in Yanai’s garden and called it Tōmon-gama. Now established as a potter, he decided to move to England.
1920, before leaving, he had an exhibition in Osaka, where he met the great potter Kawai Kanjirō. In Tokyo, a farewell exhibition was organized.
Back in England
With Hamada, he set up the Leach Pottery at St. Ives, Cornwall in 1920, including the construction of a traditional Japanese wood burning kiln. The two of them promoted pottery as a combination of Western and Eastern arts and philosophies. In their work they focused on traditional Korean, Japanese and Chinese pottery, in combination with traditional techniques from England and Germany, such as slipware and salt glaze ware. They saw pottery as a combination of art, philosophy, design and craft – even as a greater lifestyle. However, many in the West considered their pottery crude by the refined standards of the day. Publishing A Potter's Book in 1940 defined Leach's craft philosophy and techniques, and became his breakthrough to recognition.In the 1930s Leach met Mark Tobey, a fellow artist and teacher at Faith. In 1934, Tobey and Leach traveled together through France and Italy, then sailed from Naples to Hong Kong and Shanghai, where they parted company, Leach heading on to Japan. Leach formally joined the Bahá'í Faith in 1940. A pilgrimage to the Bahá'í shrines in Haifa, Israel, during 1954 intensified his feeling that he should do more to unite the East and West by returning to the Orient "to try more honestly to do my work there as a Bahá'í and as an artist..."[3]
Midlife
Leach advocated simple and utilitarian forms. His ethical pots stand in opposition to what he called fine art pots, which promoted aesthetic concerns rather than function. Popularized in the 1940s after the publication of A Potter's Book, his style had lasting influence on counter-culture and modern design in North America during the 1950s and 1960s. Leach ran a modern cooperative workshop which created a catalogue of handmade pottery for the general public. He continued to produce pots which were exhibited as works of art.Many potters from all over the world were apprenticed at the Leach Pottery, and spread Leach's style and beliefs. His British associates and trainees include Michael Cardew, Katherine Pleydell-Bouverie, Nora Braden, David Leach and Michael Leach (his sons), Janet Darnell (whom Leach married, 1956), William Marshall, Sylvia Hardaker, Kenneth Quick and Richard Batterham. His American apprentices include Warren MacKenzie (who likewise influenced many potters through his teaching at the University of Minnesota), Byron Temple, Clary Illian and Jeff Oestrich. He was a major influence on the leading New Zealand potter Len Castle who travelled to London to spend time working with him in the mid-1950s. Many of his Canadian apprentices made up the pottery scene of the Canadian west coast during the 1970s in Vancouver.[citation needed]
Leach was instrumental in organizing the only International Conference of Potters and Weavers in July 1952 at Dartington Hall, where he had been working and teaching. It included exhibitions of British pottery and textiles since 1920, Mexican folk art, and works by conference participants, among them Shoji Hamada and US-based Bauhaus potter Marguerite Wildenhain. Another important contributor was Japanese aesthetician Soetsu Yanagi, author of The Unknown Craftsman. According to Brent Johnson, "The most important outcome of the conference was that it helped organize the modern studio pottery movement by giving a voice to the people who became its leaders…it gave them [Leach, Hamada and Yanagi] celebrity status…[while] Marguerite Wildenhain emerged from Dartinghall Hall as the most important craft potter in America."[4]
Later years
He continued to produce work until 1972 and never ended his passion for travelling, which made him a precursor of today's artistic globalism. He continued to write about ceramics even after losing his eyesight. The Victoria and Albert Museum in London held a major exhibition of his art in 1977. The Leach Pottery still remains open today, accompanied by a museum displaying many pieces by Leach and his students.Honours
- Japan Foundation Cultural Award, 1974.[5]
- Companion of Honour, 1973 (UK).[6]
- Order of the Sacred Treasure, 1966 (Japan).[7]
- Commander of the Order of the British Empire, 1962.[8]
Edmund de Waal's book
Edmund de Waal, British ceramic artist and Professor of Ceramics at the University of Westminster, had been taught pottery by Geoffrey Whiting, a disciple of Leach, at the King's School, Canterbury.[9] Whilst in Japan de Waal worked on a monograph of Leach, researching Leach’s papers and journals in the archive room of the Japanese Folk Crafts Museum,[10]De Waal's book on Bernard Leach was published in 1998.[11] He described it as "the first 'de-mystifying' study of Leach."[12] "The great myth of Leach," he said, "is that Leach is the great interlocutor for Japan and the East, the person who understood the East, who explained it to us all, brought out the mystery of the East. But in fact the people he was spending time with, and talking to, were very few, highly educated, often Western educated Japanese people, who in themselves had no particular contact with rural, unlettered Japan of peasant craftsmen".
De Waal noted that Leach did not speak Japanese and had looked at only a narrow range of Japanese ceramics. [Sub 3]
Writings (selected)
- 1940: A Potter's Book. London: Faber & Faber
- --do.--New ed.; with introductions by Soyetsu Yanagi and Michael Cardew. London: Faber & Faber, 1976 ISBN 978-0-571-10973-9
- 1985: Beyond East and West: Memoirs, Portraits and Essays. New ed. London: Faber & Faber (Sep 1985) ISBN 978-0-571-11692-8
- 1988: Drawings, Verse & Belief Oneworld Publications; 3rd edition (1988) ISBN 978-1-85168-012-2
Subnotes
- ^ Shirakaba ="The Birch" (白樺) was an influential cultural magazine at that time.
- ^ A cultural magazine. Fyūzan = French fusain, charcoal pencil.
- ^ (1) Truly, Leach was not fluent in Japanese language, but more important, he was an educated artist with a keen eye, working in Japan for ten years, much longer than any other western arts and crafts man. (2) When Leach came to Japan in 1909, the every days potter had already disappeared, due to industrial production of tableware. At that time, his friend Yanagi and others were trying to save expressively this heritage, starting the Mingei-(folklore)-movement. Later in his life, but much before de Waal's book appeared, Leach spent ten years, do adept Yanagi's book, "The Unknown Craftsman", together with Japanese friends, into English.
See also
- Studio pottery
- Janet Leach
- David Leach
- Leach Pottery
- ethical pot
- Marguerite Wildenhain
- Bahá'í Faith in Japan
Notes
- ^ Cortazzi, Hugh. "Review of Emmanuel Cooper's Bernard Leach Life & Work. Japan Society (UK).
- ^ British Council: Artist biography
- ^ Weinberg, Robert. (1999). Spinning the Clay into Stars: Bernard Leach and the Bahá'í Faith, pp. 21, 29.
- ^ Johnson, Brent, "A Matter of Tradition" in Marguerite Wildenhain and the Bauhaus: An Eyewitness Anthology, (Dean and Geraldine Schwarz, eds.), p. __.
- ^ Japan Foundation: Awards
- ^ Bernard Leach archive: bio notes
- ^ Sims, Barbara R. (1998). Unfurling the Divine Flag in Tokyo, p. 66.
- ^ Bahá'í Arts Dialogue: Biography notes
- ^ Ceramics: Art and Perception, No. 54, 2003.
- ^ de Waal, Edmund.The Hare with Amber Eyes: a hidden inheritance. Vintage, 2011, p. 3. ISBN 978-0-09-953955-1.
- ^ de Waal, Edmund. Bernard Leach. Tate Publishing, 1998. ISBN 978-1-85437-227-7.
- ^ Bernard Leach; University of Westminster
References
- Olding, Simon. (2010). The Etchings of Bernard Leach, Crafts Study Centre.
- Johnson, Brent. (2007). "A Matter of Tradition"
- Cooper, Emmanuel. (2003). Bernard Leach Life & Work. New Haven: Yale University Press. 10-ISBN 0-300-09929-0 (cloth)
- Johnson, Brent. (2007). "A Matter of Tradition" in Marguerite Wildenhain and the Bauhaus: An Eyewitness Anthology Dean and Geraldine Schwarz, eds.. Decorah, Iowa: South Bear Press. ISBN 978-0-9761381-2-9 (cloth)
- Watson, Oliver. (1997). Bernard Leach: Potter and Artist, London: Crafts Council.
- Weinberg, Robert. (1999). Spinning the Clay into Stars: Bernard Leach and the Bahá'í Faith. Oxford: George Ronald Publishers. 10-ISBN 0-85398-440-9; 13-ISBN 978-0-85398-440-5 (paper)
- Ohara Museum of Art / Asahi Shimbun (1980): An Exhibition of the Art of Bernard Leach. Catalogue in Japanese.
- Sōetsu Yanagi: The Unknwon Craftsman. Foreword by Shōji Hamada. Adapted by Bernard Leach. Kodansha International, 1972.
External links
Wikimedia Commons has media related to: Bernard Leach |
Wikiquote has a collection of quotations related to: Bernard Leach |
- Leach Pottery
- Further information
- Studio Pottery
- Leach Source Collection and Bernard Leach Archive held at the Crafts Study Centre and hosted online by the Visual Arts Data Service (VADS)
- Historic Leach pottery at Stoke-on-Trent Museums
- "Accidental Masterpiece". Ceramics. Victoria and Albert Museum. Retrieved 2007-07-23.
- artcornwall.org journal for art and artists in Cornwall
- "Bernard Leach, 'Cup and Saucer'". Ceramics. Victoria and Albert Museum. Retrieved 2007-12-09.
- Abdu’l-Bahá' (Arabic: عبد البهاء; 23 May 1844 – 28 November 1921), 中文
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以生物製造重新定義自然,以虛構敘事創作新生命─當「仿生」設計遇上〈太空中的吸血鬼〉 ⊙詹育杰
【特別報導|BnF黎塞留館】
法蘭西文化知識瑰寶的居所─法國國家圖書館黎塞留館重新開張 ⊙唐忠珊
【特別報導|法國春天素描月】
探索塗繪與亂跡背後的象徵意義─巴黎國立高等藝術學院「塗繪與亂跡─從達文西到塞.湯伯利」 ⊙鄭元智
用畫學習──法博斯.伊柏的藝術學校
──巴黎卡地亞當代藝術基金會「山谷─法博斯.伊柏個展」 ⊙鄭元智
探索一種陰性素描─巴黎素描實驗空間「我(她)們無盡的慾望─卡琳.盧傑個展」 ⊙鄭元智
【國際傳真】
綠色轉型與能源危機挑戰藝文機構的未來 ⊙鄭元智
【名畫物語】
摘花的芙蘿拉─兩千年前的優雅柔美繪畫 ⊙北辰
【人類世藝術】
如果在冬夜,一個雪國的旅人─矢部佳宏與西會津參訪記 ⊙龔卓軍
【無牆藝術史】
盤中無飧時:伯納.李奇生器器 ⊙楊育睿
【國際藝壇】
在虛與實之間,過於喧囂的寂寥─紐約惠特尼美術館「愛德華.霍伯的紐約」 ⊙賴懷宇
觀察後疫情時代的日本當代藝術發展─東京森美術館「六本木交叉點2022:往來可行!」 ⊙劉育仁
一個模型、一張地圖、一部小說─2023 transmediale柏林跨媒體藝術節 ⊙林于嫣
如夢如幻的視覺饗宴─倫敦道利奇美術館「丘爾廖尼斯:在兩個世界之間」 ⊙黃杰敏
一生局外人:灣區華裔女畫家的靈性與文化追尋─舊金山亞洲藝術博物館「初見:李玉冰」 ⊙周亞澄
藝術具備觸動與感動的能量─潘普洛納納瓦拉大學美術館「荷塞.路易斯.亞歷桑科:39/10」 ⊙周芳蓮
從創世神話到後人類世的幻想空間─南錫美術館「不可能的建築」 ⊙詹育杰
【台灣美術】
台灣製造─1980年代,建造與毀壞之中生成的當代藝術 ⊙許楚君
【藝術動態】
畫廊協會卅週年 ⊙黃光男
台灣畫廊歷史的活字典 ⊙劉煥獻
【名家傑作】
一切的風格皆是途中─美國抽象表現主義畫家亞希爾.高爾基 ⊙劉諺樺
【藝術視界】
里爾美術館全新開幕中世紀文物收藏 ⊙唐忠珊
【發現美術館】
來自土地的靈感─英國根茲巴羅故居重新開幕 ⊙劉諺樺
封面圖版:
丘爾廖尼斯 天使(天堂)(局部) 1909 蛋彩紙本 47×61.8cm 考納斯丘爾廖尼斯國家美術館藏 Courtesy M. K. Čiurlionis National Museum of Art
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