大原美術館(おおはらびじゅつかん)は、岡山県倉敷市にある美術館で、公益財団法人大原美術館が運営する、日本初の私立西洋美術館である。倉敷美観地区の一角をなす。
2003年には分館が、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。
沿革[編集]
館長は西洋美術史家の三浦篤。代表理事は大原あかねと高階秀爾、父の大原謙一郎は評議員(他に猪木武徳らが全8名)。
創設[編集]
大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、古代エジプト美術・中近東美術、中国美術などの作品を展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。
第二次世界大戦後、日本にも西洋近代美術を主体とした美術館が数多く誕生したが、日本に美術館というもの自体が数えるほどしか存在しなかった昭和初期、一地方都市の倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど注目度は低かった。
大原孫三郎は1880年、親の代から紡績業を営む、倉敷の名家に生まれた。日本の児童福祉の先駆者であり、岡山孤児院の創設者である石井十次との出会いが大原の人生を変えたという[1]。プロテスタント信者であった石井の影響で自らもプロテスタントに改宗した大原は、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、大原社会問題研究所、労働科学研究所、倉敷中央病院などを次々と設立した。大原にとっては美術館の創設も社会貢献の一環という認識だったようだ。
コレクションの形成[編集]
大原は、自分と1歳違いの洋画家・児島虎次郎にことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島は1908年から足掛け5年間、大原の援助でヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月–1921年1月と1922年5月–1923年3月の2回に亙って、大原の援助で渡欧している。その主たる目的は画業の研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を日本へもたらすことの必要性を大原に説いた。大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについては児島に一任した。こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入したのである。[2]。
大原(児島)コレクションの最初の作品となったのは、児島と同世代のフランスの画家エドモン=フランソワ・アマン=ジャン(1860年 - 1936年)の『髪』という作品であった。これは児島が1度目の滞欧中の1912年、アマン=ジャン本人から購入した。翌1913年に東京上野の竹之台陳列館で開催された光風会展覧会に出品された。当時、日本国内では西洋絵画の実物に接する機会はほとんどなく、この作品の公開は反響を呼んだ[2][3]。美術館所蔵品の中核をなす作品の多くは、1920年から1923年の間に児島虎次郎によって、フランスの首都パリにおいて主に収集された[4]。モネ『睡蓮』は晩年のモネ本人から児島が直接購入したものであり[5]、マティス『画家の娘―マティス嬢の肖像』もマティス本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという[6]。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出した[7]。児島は「こんな機会は二度とない」と思ったが、非常に高価で手持ちの金もなかったため、この時ばかりは大原に写真を送り購入を相談した。現在ではこの名画が日本にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の肖像―ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である[8]。これらの西洋美術の他に、エジプト美術、ペルシャ陶器、中国美術なども児島は収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度か公開され、評判を得ていた[2]。
1929年、児島が他界し、これを大いに悲しんだ大原は、児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館した。 大原美術館には、児島虎次郎以外のルートから入手した作品もある。ルノワール『泉による女』は、大原孫三郎が援助していた画家の一人である満谷国四郎が入手した作品で[9]、ピカソ『鳥籠』、ドラン『イタリアの女』、スーティン『鴨』などは画商・福島繁太郎(1895年–1960年)のコレクションに入っていたものを第二次世界大戦後、大原美術館が入手した[10]。大原孫三郎の嗣子・大原總一郎(1909年–1968年)も文化人として知られ、フォーヴィスム以降の現代絵画、近代日本洋画、民藝美術など、新たな収集品を付け加えた。
なお、第二次世界大戦の末期、一式陸上攻撃機などを製造していた三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車工業水島製作所)が何度も爆撃され(水島空襲)、隣県の広島市への原子爆弾投下もあったが、倉敷市中心部は全く爆撃されなかった。これは米軍関係者に、大原美術館のコレクションを知っていた者がいたからといわれることもあるが、ウォーナーリストなどにも載っておらず史料的な裏づけはない。実際には、軍事目標たる戦闘機の製造工場から破壊するのは当然であり、倉敷市街への爆撃に向けて目標情報票も作成されていた。さらに、現在では米軍が日本の文化財に配慮して爆撃を控えたとする説自体が疑問視されている。
歴代館長[編集]
- 初代:武内潔真(1888 - 1981)、1930年 -
- 2代:藤田慎一郎(1920 - 2011)、1964年4月 - 1998年3月
- 3代:小倉忠夫、1998年4月 - 2002年3月
- 4代:高階秀爾、2002年4月 - 2023年6月
- 5代:三浦篤、2023年7月[11]より
盗難[編集]
- 1963年にコローの絵画『ナポリの風景』がすり替えられ盗難に遭う事件が発生。現在も行方不明。
- 1970年に本館に展示されていたルオー『道化師』、ゴッホ『アルビーユへの道』(贋作の疑いがあり現在は公開されていない[12]。)、モロー『雅歌』、ギヨマン『自画像』、ヴュイヤール『薯をむくヴュイヤール夫人』の絵画5点が盗難される事件が発生。被害総額は1億8000万円とされ、倉敷警察署に捜査本部が置かれたほか、警察庁は海外流出の恐れがあるとして国際刑事警察機構を通じて手配を行った[13]。